スピリチュアリティ・霊能力・神との繋がり
2023.1.29
スピリチュアリティとは。
霊能力とは。
神との繋がりとは。
これらは限られた人にのみ与えられた特別な能力なのでしょうか。
私たち人間は、三次元世界を生きてくために、
五感と呼ばれる知覚・感覚機能を与えられ、
この知覚・感覚と共に、生命活動、精神活動を行って生きています。
この五感が先行する三次元世界では
その影響力が大きすぎるがゆえに、
それ以外の次元の感覚がかき消されてしまうという、
そんな現象が起きてしまっています。
この三次元的な感覚でどんなに高次元の存在を探しても、
それらを分かろうとしても、
残念ながら、それは一向に繋がれるものではないのです。
この五感という知覚・感覚機能。
五感は私たち人間の、快/不快、喜怒哀楽などの感受性や感情を膨らませ、
人生に奥行きや深みを与えてくれています。
一方で、先天的に、また後天的に、
この知覚・感覚機能が「肉体上で」失われている方々もいらっしゃいます。
では、このような状況の方々は、
人生の奥行きや深みは味わえないのでしょうか。
いいえ。
むしろその境遇を強い意志力で乗り越え、
自らを昇華させ、より深い感受性を養い、
豊かに人生を謳歌している…
そのような方々が本当にたくさんいらっしゃいます。
なぜそのようなことができるのか。
それは、五感という知覚・感覚機能のその大元にある、
「源」自体を感じられているからなのです。
そこには五感のような肉体に備わっている、
知覚・感覚に訴えるものの存在はありません。
代わりに、
兆しのような、
エッセンスのような、
漂いのような。
言葉やイメージでは表し難い、
知覚を超えた、微かな、でも確かなもの。
それのみが「在り」ます。
なので、たとえ目が見えなくても色を感じられ、
耳が聞こえなくても音の美しさを知ることができる。
そんな方々がいらっしゃるのです。
スピリチュアリティとは、
霊能力とは、
神との繋がりとは。
まさにこの次元のもの、
「存在や事象の本質・源を感受する」
能力・資質のことです。
そして、この能力・資質は
誰にでも備わっているものなのです。
「イメージとして見えてこないから、
メッセージとして聞こえてこないから、
だから私には神との繋がりがない」
などでは、決してない。
本当の神との繋がりとは、
一体となること。
神と一体となり、
神の神聖そのものとして生きること。
ではいったい、
神聖とはどこからやってくるのか。
それは他でもない自らの内側から。
「内なる平和、内なる静けさ」から。
なぜ瞑想が大切と云われるのか。
それは、この内なる平和、内なる静けさを、
自らの内に深く経験することができ、
自らの内に常に宿せるようになるものだからです。
瞑想をし、内なる平和・静けさを知ること。宿すこと。
このベースメントが、日常生活に於いて、
神聖なる自己として、
神聖なる感受をし、
神聖なる思考をし、
神聖なる言動をする、
神聖なる生き方を導いてくれます。
ここには、どんなメッセージもイメージもありません。
自らがそのように、
「神聖そのものとして生きている」
ということだけです。
自覚できないような、
捉えようもないような「神聖なもの」が、
自らの内で広がる平和・静けさから現れ出て
自らの感覚に、思考に、言動に、
浸透し、満ち溢れ、それと一体となり、
そのものとして生きること。
神聖なる感受をし、
神聖なる思考をし、
神聖なる言葉を発し、
神聖なる振る舞いをする。
神聖なる感受とは、
あらゆるものの奥にある聖なる息吹に気づくこと。
神聖なる思考とは、
あらゆるものへの愛と感謝を発すること。
神聖なる言葉を発すとは、
あらゆるものへの敬意と平和を表すこと。
神聖なる振る舞いとは、
あらゆる事象をただ受け入れ誠心誠意を尽くすこと。
ただ「そう在る」ことを選択する。
するとたった今自分が
どう感じ、
どう判断し、
どう話し、
どう振る舞うべきか、
神聖なるものが自らのものとして、
自分が「そう」であるものとして、
自然に瞬間に「そう」なれてゆく。
掃除をしていても、
電車に乗っていても、
歩いていても、
ご飯を食べていても、
伝票を書いていても、
作業をしていても、
お世話をしていても、
買い物をしていても。
どこに行くわけでもなく、
何かを変えるわけでもなく、
与えられた日常の中で。
神聖を内に宿し、一体となり、
自らが神聖なるものとして
一瞬一瞬を生きること。
存在すること。
これこそが本当の
スピリチュアリティであり、
霊能力であり、
神との繋がりなのです。